画像出所:如来縁起絵伝(淵之坊版)
秘仏の阿弥陀如来の生まれから、善光寺はいつ、だれが長野の地に創建したのか。その物語が善光寺縁起にはすべて書かれています。
善光寺は現在になっても多くの謎に包まれています。善光寺の始まりは、今から約1400年前の皇極天皇3年(644)と言われていますが、これを伝えるのが善光寺縁起です。
善光寺縁起とは、善光寺の成り立ちを物語としてまとめたもの
善光寺縁起には、秘仏の阿弥陀如来がどのようにして生まれたのか、善光寺はいつ、だれが長野の地に創建したのか、など、善光寺の謎を解く手がかりがたくさん記されています。
そもそも善光寺とは、本田善光さんのお寺という意味で、善光の寺から善光寺の名がきていると言われています。そのような善光寺の成り立ちについて触れているのが善光寺縁起なのです。
なお、善光寺縁起では、善光寺の始まりを今から1400年前と伝えているものの、その創建に関する歴史的資料は残されていません。とはいえ、善光寺の境内から出土した瓦の特徴から、善光寺の創建は飛鳥時代(7世紀後半)であろうと推定されています。
また、善光寺の名は、10世紀中頃と考えられる古文書に初めて認められており、12世紀中頃、延暦寺の僧皇円によって著された「扶桑略記」の中で、歴史において初めて善光寺縁起が登場しています。
それでは、実際に善光寺縁起をダイジェストでご紹介します。(善光寺御開帳公式ハンドブックより抜粋)
善光寺縁起【前編】…お釈迦様と阿弥陀如来様
昔、天竺(インド)の毘舎離国に月蓋長者という大金持ちがいて、如是姫という娘を溺愛していました。
あるとき、流行病が起こり、如是姫に伝染してしまいました。この長者はとてもケチで、お釈迦様が家へ托鉢に来られたときも何も差し上げなかったような人物でした。しかし、不治の病いに見舞われた如是姫のために、長者はお釈迦様のもとへ命乞いに行きました。すると、お釈迦様は「西方の極楽にいらっしゃる阿弥陀様に向かって、南無阿弥陀仏と唱えなさい」といわれました。
長者は家に帰ると、西方に向かって香華燈明を供え、念仏を唱えること10回。すると、御身の丈1尺5寸の阿弥陀如来が現れ、光明を放たれました。その光が如是姫の枕もとに届いた瞬間、国中の病人が全快してしまいました。
月蓋長者は、娘の全快に感激して、霊験あらたかな阿弥陀仏のお姿をお写ししてこの世にとどめようと思い、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は、せっかく作るなら一番りっぱな金-竜宮城にある閻浮壇金-で作るほうがいいとお考えになり、弟子の目連を竜宮城へ遣わされました。竜王はなかなか承知しませんでしたが、目連に説得されて閻浮壇金を献上することにしました。
目連はこれをお釈迦様に差し上げ、お釈迦様はこの金を鉢に入れてお祈りをしました。すると、西方から阿弥陀如来が現れて、光明が閻浮壇金を照らしました。金は湯のように沸き立ち、観音菩薩像と勢至菩薩像を伴う一光三尊の姿になりました。これが、後に善光寺如来として信仰を集める仏様になったのです。月蓋長者は立派なお堂を建て、この阿弥陀様を安置して礼拝しました。
阿弥陀様は天竺で多くの人々を救った後、百済国へと渡られました。
善光寺縁起【後編】…仏様と本田善光公
当時、百済の支配者は月蓋長者の生まれ変わりである聖明天皇でした。しかし、聖明王は前世のことに気づかず、悪行三昧の日々を過ごしていました。
ところが阿弥陀様が、過去の因縁をお話になると聖明王はたちまち改心して阿弥陀仏を宮中に安置して供養するようになりました。
百済での教化の後、仏様は日本に渡ることを聖明王に告げ、日本の欽明天皇のもとへ送られることになりました。
日本では欽明天皇が、この仏像を拝むべきか会議を開きました。蘇我稲目が信仰すべきだと奏上したので、天皇は稲目にこの仏像をお預けになり、稲目は屋敷にお堂(向原寺)を建て供養しました。そのうちに日本に悪い病が流行りだすと、物部尾輿はそれを阿弥陀仏のせいだとして蘇我氏の屋敷を焼き討ちにし、仏像を難波の堀へ放り込んでしまいました。
数年の後、信濃国麻績郷(現在の飯田市善光寺)の本田善光という人が都にのぼり、帰る途中難波の堀の近くを通りました。すると堀の中から「善光、善光・・・」と呼ぶ声がして、水のなかから仏像が飛び出してきました。
そして、善光が月蓋長者、聖明王の生まれ変わりで、阿弥陀様にお仕えしてきたことを告げました。
それを聞いた善光は、故郷の麻績郷の家に仏様をお連れしました。そして家の中でいちばん清潔なところは臼の上だというので、臼の上に安置しました。
そのうちに阿弥陀様が善光の夢枕で「水内群芋井の郷へ移りたい」と仰せになったので、長野の地に移り、家の西にお堂を建てて、そこに安置しました。しかし、仏様は朝になるといつもお堂から善光の家のほうへもどってしまうので、家の西の庇の間に安置することにしました。
善光には善佐という息子がいましたが、若くして死んでしまいました。嘆き悲しんだ善光が阿弥陀様に相談すると、阿弥陀様は閻魔大王に善佐を生き返らせてくれるよう頼んでくださいました。
善佐は、この世に戻る前に閻魔大王の厚意で地獄の中を見物させてもらいました。その道中では、皇極天皇が引き立てられていく姿に出会いました。生き返った善佐は、このことを善光に伝えました。
それを聞いた仏様は、皇極天皇をこの世に返してくれるように取り計らいました。皇極天皇は、仏恩に感謝して、善光、善佐親子を都へ呼び、善光を甲斐守、善佐を信濃守に任じました。そして、善光の家には阿弥陀様を安置する立派な如来堂が建立され、寺の名は善光寺と名づけられました。
<善光寺縁起は以上です>
本田善光は善光寺で別格扱い
善光寺の御本尊の隣には、御三卿の間があります。
御三卿とは、善光寺開山の本田善光卿を中心に、奥様の弥生(やよい)御前、息子の善佐(よしすけ)卿の三名です。
御本尊よりも善光寺本堂の中央寄りに安置されている御三卿、創建に関わった本田善光が善光寺において特別な存在であることを示しているといえます。
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