善光寺の本尊流転とはどのようなことか



    



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戦国武将の思惑で全国各地を流転した善光寺ご本尊

信州長野善光寺のご本尊は、約40年間に渡り本堂を離れ各地を流転しました。そこには、戦国武将たちが大きく関っています。

善光寺のご本尊が各地を転々とすることになったきっかけは、信州長野善光寺より程近い「川中島の合戦」が契機となります。

川中島の合戦は、武田信玄と上杉謙信の戦いですが、前後5回、11年間に続いた戦いとも言われます。この際に、武田信玄は善光寺に戦火が及ぶのを恐れ、善光寺にあったご本尊や仏具をはじめ、僧侶たちを全て甲斐(甲府)に移転します。このときに、甲斐(甲府)には新たに善光寺が建てられたわけですが、これを甲斐(甲府)善光寺と言い、現在でも武田信玄が開基となったお寺として有名です。

その後、天正10年(1582)に武田氏は織田信長によって滅ぼされます。その際、織田信長の長男である信忠は、さっそく善光寺のご本尊を甲斐甲府から本拠地である岐阜へ移しました。これが岐阜善光寺です。

しかし、その年の夏に織田信長は家臣である明智光秀により京都の本能寺で殺されてしまいます。(本能寺の変)そのため、今度は次男の信雄により善光寺のご本尊を尾張清洲甚目寺(愛知県甚目寺町)に移します。

その翌年、今度は徳川家康により浜松(静岡県)の鴨江寺に移され、やがて甲府に戻されます。

それから15年して、天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、その翌年に善光寺のご本尊を甲府から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来(ご本尊)のたたりだと噂されるようになりました。

そのため、慶長3年(1598)に、急いで信濃(つまり信州長野のもともとの善光寺)へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が京都へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。

こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は信濃(信州長野)の善光寺に戻ったのです。


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