善光寺創建の鍵を握る本田善光公とは



    



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仏様と本田善光公

阿弥陀様はどのようにして信濃国の善光のところへ渡ったのか

当時、百済の支配者は月蓋長者の生まれ変わりである聖明天皇でした。しかし、聖明王は前世のことに気づかず、悪行三昧の日々を過ごしていました。

ところが阿弥陀様が、過去の因縁をお話になると聖明王はたちまち改心して阿弥陀仏を宮中に安置して供養するようになりました。

百済での教化の後、仏様は日本に渡ることを聖明王に告げ、日本の欽明天皇のもとへ送られることになりました。

日本では欽明天皇が、この仏像を拝むべきか会議を開きました。蘇我稲目が信仰すべきだと奏上したので、天皇は稲目にこの仏像をお預けになり、稲目は屋敷にお堂(向原寺)を建て供養しました。そのうちに日本に悪い病が流行りだすと、物部尾輿はそれを阿弥陀仏のせいだとして蘇我氏の屋敷を焼き討ちにし、仏像を難波の堀へ放り込んでしまいました。

数年の後、信濃国麻績郷(現在の飯田市善光寺)の本田善光という人が都にのぼり、帰る途中難波の堀の近くを通りました。すると堀の中から「善光、善光・・・」と呼ぶ声がして、水のなかから仏像が飛び出してきました。

そして、善光が月蓋長者、聖明王の生まれ変わりで、阿弥陀様にお仕えしてきたことを告げました。

それを聞いた善光は、故郷の麻績郷の家に仏様をお連れしました。そして家の中でいちばん清潔なところは臼の上だというので、臼の上に安置しました。

そのうちに阿弥陀様が善光の夢枕で「水内群芋井の郷へ移りたい」と仰せになったので、長野の地に移り、家の西にお堂を建てて、そこに安置しました。しかし、仏様は朝になるといつもお堂から善光の家のほうへもどってしまうので、家の西の庇の間に安置することにしました。

善光には善佐という息子がいましたが、若くして死んでしまいました。嘆き悲しんだ善光が阿弥陀様に相談すると、阿弥陀様は閻魔大王に善佐を生き返らせてくれるよう頼んでくださいました。

善佐は、この世に戻る前に閻魔大王の厚意で地獄の中を見物させてもらいました。その道中では、皇極天皇が引き立てられていく姿に出会いました。生き返った善佐は、このことを善光に伝えました。

それを聞いた仏様は、皇極天皇をこの世に返してくれるように取り計らいました。皇極天皇は、仏恩に感謝して、善光、善佐親子を都へ呼び、善光を甲斐守、善佐を信濃守に任じました。そして、善光の家には阿弥陀様を安置する立派な如来堂が建立され、寺の名は善光寺と名づけられました。

<善光寺縁起は以上です>


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